英語個人レッスンのネタ

英語圏への出張を機に、週1回程度ネイティブの人に英語のレッスンを受けている。(よくカフェなどで見かけるやつ)

今までやってみたレッスン内容は以下。

  • 英語で自己紹介(ビジネス向け)をする
  • 英語の文章を読んでもらい、聞き取る。また、その内容を基にいくつかクイズを出してもらい、答える。
  • 海外の映画を見て内容を説明する
  • ある単語について英語で説明し、
       該当の単語が何かを当てるクイズ
  • 海外と日本の文化や制度の違い
      (税金、医療、教育)等について   
        ディスカッションする




龍馬がゆく

司馬遼太郎歴史小説「龍馬がゆく」を読んでいる。
日本史は全くと言っていい程知らない分野だったが、明治維新前後の動乱、文化、思想などを知ることが出来興味深かった。
当時、身分が下の者が上の者に無礼を働いた場合は斬り捨てても罪に問われなかったり、金銭の受け渡しや情報伝達に10日間ぐらいかかったりするという、今では考えられないような事が普通であったとされており、日々の暮らしがどれだけ不便であったかは想像もつかない。人々が偏った思想や外国人に対する差別意識を持ち得たのも、極端に情報が不足していたからだろう。自分が見聞き
したものや特定の個人からの伝聞程度しか情報が得られない状況下においては
仕方のない事だ。どういった背景や想いで行動を起こしたのか、想像しながら読むのがとても面白い。


継続は力なり

1日10分でも継続して取り組めば1ヶ月で5時間分できる計算になる。
厚切りジェイソンは日本語(特に漢字)を学ぶコツを、「毎日少しずつ継続する事」だと言う。一気にやろうとすると無理が出るし、飽きてしまったりする事もある。

『継続は力なり』 的確に真実を表す諺だ。

情報の非対称性

経済学のよく知られた概念で、情報の非対称性というものがある。

情報の非対称性(じょうほうのひたいしょうせい、英: information asymmetry)は、市場における各取引主体が保有する情報に差があるときの、その不均等な情報構造である。「売り手」と「買い手」の間において、「売り手」のみが専門知識と情報を有し、「買い手」はそれを知らないというように、双方で情報と知識の共有ができていない状態のことを指す。情報の非対称性があるとき、一般に市場の失敗が生じパレート効率的な結果が実現できなくなる。このとき、必ずしも情報を持たない側に不利益が生じるわけではなく、情報を持つ側に不利益が生じることもある。

ケーススタディでは良く中古車市場の例が挙げられ、売り手のみが販売する車の状態を良く把握していて、買い手は把握していないことから情報の非対称性が発生するという説がある。

中古車市場だけでなく、住宅市場や
保険市場等でも同じ事が言える。
住宅や保険などは日用品や食料品などと違い、そう何度も購入・加入するものではなく比較検討する機会も少ないため、買い手側の情報も自然と少なくなる。
そのため購入・加入に際しては知名度の高い企業を選んだり良く見知った商品を選ぶ可能性が高くなる。
不動産業者や保険会社がTVCMを流したり、DMを頻繁に送ったり、顧客のオフィスや家庭を訪問して営業をかけたりするのはそうした理由からであろう。
その戦略はある意味正しいと言えるが、買い手側は販売価格には利潤の他に各種プロモーション費用や営業費用が上乗せされている事は認識しておくべきだろう。




行列に並ぶコスト

久しぶりにスポーツ観戦をする機会があったが、競技場に着くまでのいくつかのシーンで行列ができていた。

•最寄り駅からのバス
多分、100人以上並んでいた。

•近隣のコンビニ
店の中で列が折り返しており、20組ぐらい並んでいた。

バスは無料ではあるものの明らかに1台の収容人数を超えており、何往復かする
時間を待たなければならない。
歩いても15分ぐらいなので明らかにそちらの方が速い。
コンビニも10分ぐらいは待たなければならないと思う。近隣の個人商店では飲み物とつまみを全く並ばずに買うことが出来た。

スポーツ観戦のようなシチュエーションはある種特殊だとしても、普段街中でも行列を見かける事がしばしばある。

•ラーメン屋
•銀行ATM(給料日後)
•開店前のデパート

など。

行列に並ぶ事に対するコストの考え方は人それぞれだと思う。並ぶのは苦にならず、時間にも余裕がある人は行列に並ぶ事のコストは低いだろう。
逆に並ぶのが嫌で、時間の余裕もない人の行列に並ぶコストは高い。
スマートフォン等の普及で並んでいる間暇はしないという意見もあろうが、それでも気温が高かったり低かったりしても我慢しなくてはいけなかったりトイレに行けなかったりするという制限された環境である事は間違いない。

ボーダーライン

例えば最近であれば原発に賛成か反対か、などという問いがあるが、原発に反対だった人が賛成に意見を変えた時に、
180度意見が変わった、一貫性がないなどと批判を浴びることがある。

仮に賛成を100、反対を0として「どちらでもない」という選択肢がなく、どちらかの意見を表明するしかない状況があったとすれば51(かなり微妙だが、どちらかといえば賛成)の人も100(完全に賛成)の人も同じ「賛成」にカテゴライズされてしまう事がある、

51の意見を持っていた人が新しい情報を得たり、何らかのきっかけで49の意見に変わる事は容易に想像がつくが、その際「やっぱり反対」と言うとすごく叩かれてしまうという訳だ。

意見を変えた背景やプロセスが明示されていればそれが納得できるか判断すれば良いと思うが、「一貫性がない」事のみにフォーカスしてしまうと本質を見失ってしまう。

スマホの功罪

先日電車に乗っていた時の事。
隣に前屈みで座っていた高校生のスマホ画面が自然に見える角度で、何気なく見ていた。
メモ帳を開いてメモしたり、twitterを見たり、興味のある言葉を検索したり、
ひっきりなしにアプリを切り替えて違う事をしている。友達からLINEやメールが来ればすぐにそれを見るであろうことは想像に難くない。
スマートフォンの弊害については諸説あるが、恐らく集中力が身に付きにくいであろう事は身をもって体感した。
スマートフォンが普及した事で、ものすごく便利になった事が多いが、一方で人々が物を考えなくなったというのもまた真実かもしれない。
調べれば疑問はすぐに解決するし、忘れかけていることを懸命に思い出す必要もない。
人間を1つのデバイスだと仮定して、検索エンジンを巨大な外付けハードディスクだと考えれば、内蔵ディスクに情報を持っておく必要はない。かと言って、じゃあ何も覚えたり学ぶ必要はないのかか、というとそういう事でもないと思う。色々な物事を学んでそれらを組み合わせる事で新しいアイディアが生まれる
はずで、情報の蓄積や思考するプロセスを経て醸成されるのが知識だと言えよう。